7月の御言葉

2022.06.30

7月の聖書の御言葉『悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。ルカ6.43』

この聖書の一節は、「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」とつながるのですが、この御言葉を目にするたびに、私の脳裏をある文章がよぎります。それは詩人の大岡信さんが書いた、『言葉の力』という文章です。以下に一部掲載します。

【引用】
人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。(略)
京都の嵯峨に住む染織家志村ふくみさんの仕事場で話していたおり、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。(略)
私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色がとれるのだという。(略)
桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの尖端だけ姿を出したものにすぎなかった。
考えてみればこれはまさにそのとおりで、木全体の一刻も休むことない活動の精髄が、春という時節に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。(略)
このようにみてくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。言葉の一語一語は、桜の花びら一枚一枚だといっていい。一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかしほんとうは全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。( 『言葉の力』 大岡信 による )

言葉とは、『私たち自身』という幹に連なる枝の、その先端の花びらで、しかしそこには『私たち自身』の活動の本質的なところ、経験したことや知識、性格など全てを含む内面が表れているというのです。
御言葉と重ねて考えると、悪い実が成るということは、木である私たち自身が悪い人になっているということで、良い実が成るということは私たち自身が善い人になっているということなのだと思います。では、私たちが善い人になるためにはどうしたらよいでのしょう。それにはやはり、心の倉を良いもので満たしてあげることが大切なのだと思います。心の倉は、様々な人との関わり合いや対話の中で少しずつ満たされるはずです。そう考えるとき、自分の言動は子どもたちの心の倉を良いもので満たしてあげられるようなものだろうかと、自分を振り返らずにはいられません。そばにいる大人として、子どもの口からみえる心の倉が良いものであるように、自分が良い木なのか悪い木なのか、良い実をつけられているのか、悪い実をつけているのか、振り返りながら過ごしたいものです。

ちなみに、上の文章は、本校で採用している『国語2(光村図書)』の教科書に掲載されている文章です。お手元にある場合は、ぜひ一度ご家庭でも話題にしてみて下さい。